イエズス会36総会の新しさと精神

梶山 義夫 SJ
イエズス会日本管区長

36総会の新しさ

今回の総会の基本的あり方に関して新しい点は、二つある。一つは、本会は六つの地区から構成されているが、地域ごとに総会参加者が2015年10月に会議を開き、総会運営委員会や教令作成委員会などの委員を選出したことである。その委員会は、ローマに参加者全員が集まる前に草案を参加者に配布して、意見を募り、さらに草案を作成し、総会が円滑に進行することに貢献した。もう一つは、地域ごとにブラザーが選出され、総長選出や教令採択に関する投票権を持つ者として総会に参加したことである。総会における彼らの存在と意見は、総会の意思決定に貢献した。

総会が動いた三つの時

2016年10月3日に開会し、11月12日に閉会した36総会には、三つの重要な時があった。第一の時は、総長の選出である。参加者相互の親しい会話が四日間続けられた後に選出されたのが、アルトゥーロ・ソーサ神父、ベネズエラ出身である(下の写真右)。本会では、1965年以降、ペドロ・アルペ神父、ペーター・ハンス・コルベンバッハ神父、アドルフォ・ニコラス神父(下の写真左)、そして現総長と、ヨーロッパ以外の管区に所属する会員が総長として選出されてきた。本会を活性化する力も、ヨーロッパの外にあることを示している。

第二の時は、教皇の訪問である。今回は、教皇を訪問するのではなく、教皇が総会を訪問した。教皇は、会員に三つの事柄を求めた。慰めをひたむきに祈り求めること、十字架につけられた主に心を動かされること、そして教会と心を合わせながら、善霊に導かれて善いことを行うことである。この通信では、二番目の内容について触れたい。十字架につけられた主に心を動かされることとは、主ご自身に、また人類の大半を占める、苦しむ多くのわたしたちの兄弟姉妹におられる主に心を引かれることである。苦しみのあるところにイエズス会がある。いつくしみ深くわたしたちをご覧になって、選んでくださる主は、もっとも貧しい人々、罪人、見捨てられた人、不正や暴力によって苦しみ、現代世界において十字架につけられている人に、同じ主のいつくしみを、そのすべての実りと共にたずさえるようにわたしたちを派遣される。わたしたちは個人としても、また会としても、まず自らの傷に対する主の癒しの力を体験しながら、兄弟姉妹の耐えられない苦しみに勇気をもって心を開き、どういうふうに助けたらよいかを彼らから学び、寛大な心で彼らと共に歩むようにと教皇は勧めた。

第三の時は、会議の昼時間に非公式な会合として開かれた、シリアなどに関する、中東管区の参加者や協働者による発表と質疑応答である。この会合を通して、総会参加者は世界各地の戦争や対立に心を向け、まったく準備されていなかった教令を作成することとなる。

主要な教令

36総会の主要な教令は、『和解と正義のミッションにおける同志』、『新たなミッションのための統治の刷新』、『友情と和解の証人』であり、また年少者への保護と安全を求める事柄に関する総長への依頼である。

『和解と正義のミッションにおける同志』における本会の原風景は、イグナチオの『自叙伝』に示される1537年のベネチアである。イグナチオとその同志は、霊操を受けた者として、小グループに分かれても一致を保ち、極めて貧しい生活を送りながら、神のことばに仕えた。彼らの生き方は、今日の本会にも根本的な規範となる。

36総会は、諸管区から送られてきた提案を元に、永遠の王から本会に対する呼びかけに関して審議した。本会の最も根本的なミッションは、「和解のために奉仕する任務」(2コリ5:18)である。その奉仕は、三つの側面から成り立っている。

永遠の王からの第一の呼びかけは、神との和解への奉仕である。この和解は、イエスと出会う喜びと希望から生まれる。この奉仕に忠実に携わるためには、教会が刷新される必要がある。その際に役立つのが、イグナチオの霊性、特に識別である。わたしたちの世界は、世俗化し、宗教離れが進む社会で、特に若い世代にどのように福音の喜びを伝えるのか、諸宗教対話にどのように関わるのかなどに関して、徹底した識別が求められている。

第二の呼びかけは、正義と平和を促進する奉仕である。世界には数多くの難民、移住者、そして差別を受けている人々がいる。貧富の格差も拡大し、若い人々や弱い立場の人々を圧迫している。わたしたちに求められていることは、まず彼らから学ぶということであり、学ぶなかで彼らをサポートできるようになる。また各地に戦闘状態が見受けられる。その原因を探りながら、平和への道を絶えず模索することが求められる。

第三の呼びかけは、創造との和解である。教皇の『ラウダート・シ』の反響が背景にある。今日、環境の危機が提起されているが、これは同時に社会的な危機、特に貧困や疎外と深く関わっている。傷つけられた世界を癒やすためには、神の創造の業をしっかりと見据えて、社会のあり方そのものを抜本的に再構築する必要がある。

『新たなミッションのための統治の刷新』では、統治に関する今日の状況に合致した行動様式として、識別、協働、ネットワーキングが挙げられた。それらは、断片化され、分断された世界において、国際的、多文化的組織として使徒職を果たすために重要である。世界を視野に入れた真の識別によってこそ、人々と共通のヴィジョンを持ち、ふさわしいミッションを選択し、計画し、実行できる。また協働に関しては、本会の事業体で働く人々との協働だけではなく、信仰への奉仕と正義の促進にさまざまな段階で結ばれた人々と共に識別し、共に決定し、共に実践し、共に評価するということが重要である。またネットワーキングは、管区間、事業体間、使徒職間などさまざまなレベルで、新しいコミュニケーション技術を利用しながら発展してきた。これをさらに充実させるには、ヴィジョンとリーダーシップを持つ人が必要であり、そのための養成が不可欠である。この教令の後半では、管区長や支部長上は常に世界レベルの視野を持ち、各地域の管区長たちとの協働を推進することが求められている。

『友情と和解の証人』は、シリアの現状報告に端を発し、さらに南スーダン、コロンビア、アフリカのヴィクトリア湖周辺、中央アフリカ、アフガニスタン、ウクライナ、イラクなどで起こっている悲惨、特に貧しい人々の生活をさらに困難にする深刻な状況を鑑みて、その最前線に生きる会員と協働者に向けて、感謝と励ましの言葉を贈ると共に、彼らとの連帯、正義と平和のために働く決意を表明する教令である。

年少者の保護と安全を確実にする事柄に関しては、総会は総長に管区長たちと協力しながら、本会内部と本会が関わる使徒職において、養成や共同生活、事業体や統治の分野で、保護と安全を促進するあり方を形成するように依頼した。

以上が総会の報告である。日本管区においては、昨年1月に公表した管区の優先課題が、今総会の精神に十分に沿った内容であると考え、特に会員以外の読者の皆様のことを考慮して、掲載する。

  1. 日本の知的状況を鑑みた場合、イエズス会が社会と教会にもっとも効果的に奉仕できる使徒職は、イエスがもたらした神の国の福音をつたえる神学研究であり、その教育である。そのため、神学使徒職を管区使徒職の優先課題とする。具体的には、日本の教会全体に奉仕するために、国内外の協働による神学研究をさらに充実させ、神学生養成をはじめ、福音の価値観に基づく人間形成に関わるために修道者、信徒などを養成するように貢献する。そのために、本管区が関わる教育機関と国内外のカトリック教育機関との連携を強化する。
  2. 現代日本では、人々の心や霊的次元への奉仕が不可欠である。そのため、霊性使徒職を優先課題とする。霊操を基本とし、現代の人々が霊的に成長することに有益な霊性や東洋の伝統に培われた霊性を視野に入れた研究や実践を促進する。具体的には、霊性センターをさらに活性化し、霊的指導ができる人々を養成することに貢献する。
  3. 日本が置かれている世界、特にアジアの政治・経済的観点から、正義の促進と環境分野に奉仕するため、社会使徒職が不可欠である。そのため、社会使徒職を優先課題とする。具体的には、教皇と司教団、そしてイエズス会の方針に基づき、世界的ネットワークを活かして、環境や原発問題、歴史認識や平和形成、貧困問題などに関して、協働者をはじめ、多くの人々と共に声を挙げながら、研究や啓発活動に従事して、世界や日本のフロンティアの必要に応える。なお、この分野に関してアジア太平洋地域において、さまざまレベルの連携を促進する。たとえば、東ティモールにおける本会の活動を積極的に支援したり、日韓両管区の協働を推進したりする。

実施にあたってのいくつかの指針

  • 全会員、また、従来行ってきた教会使徒職、教育使徒職等は、以上に述べた三つの優先課題を十分に自らの使徒職に組み入れてその活動を展開する。
  • 優先課題を実践するさいに、信徒や協働者との対等なパートナーシップを常に心がける。
  • 特に次世代の信徒がリーダーシップを発揮するための養成プログラム及び資金援助などを検討・実施する。
  • 日本における召命促進とともに、日本管区への宣教師派遣を他管区に要請し続ける。

《三浦まり》 政治における対話の必要性

(文責) 柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

  以下は、当センターの2016年度連続セミナー「ラウダト・シ」第12回目として、2016年12月21日に三浦まりさん(上智大学教授)が話された内容の要約です。


私は上智大学の地球環境法学科に所属していますが、専門は環境問題よりも社会保障です。ただ、社会保障も環境問題も、どうやって持続可能なシステムを作っていくのかという点では共通しています。『ラウダート・シ』の中でも「世代間正義」ということが語られていますが、世代間に公平な分配ができるシステムへの転換が私たちの大きな課題です。

人口減少(少子化)問題から考える

上のグラフからは、日本の人口増加・減少のジェットコースターのような状況が一目瞭然です。明治維新後急激に増えていった日本の人口は、2010年がピークとなって、すでに減少期に入っています。上ってきたのと同じ角度で急直下していく推計です。

これだけの急激な人口減少がどうして起きるのでしょうか。最大の理由は、出生率の低下です。1950年から現代までの先進国の出生率の変化を比べてみると、どの国も下がっています。その中でも、すごく減らしてしまった日本、ドイツ、イタリアのような国と、減らしてしまった後、再び増えているスウェーデン、アメリカ、フランスなどの国に分かれています。子どもを産んだり育てたりといった環境を政府が整えると、きちんと人口は回復していくのです。

  右のグラフからは、出生率が1.8を超えている国と、1.5以下の国が見て取れます。日本(青)は2005年の1.24から少しだけ上昇して、今は1.4です。

少子化の原因は何なのでしょう。例えば、保育園の不足です。2016年のユーキャン新語・流行語大賞を受賞した「保育園落ちた 日本死ね!!!」という言葉は、あるブログでの書き込みでした。私はこのブログを読んだ時、こういった言葉を使わなければいけないほどまでに追い込まれた一人の女性の悲鳴だと受け止めました。同じくそれを悲鳴だと受け止めた国会議員の山尾志桜里さんが、国会で総理に質問をしたところ、これは匿名ブログだから、誰が書いたかわからないものに答えようがない、と総理が答え、それに怒った多くの人が、国会前でプラカードを掲げて、「保育園落ちたの私だ」と訴えました。保育園がなければ、親が働き続けられないのだという大きなメッセージです。

待機児童の問題がここまで大きく取り上げられたのは、ブログの効果だけでなく国会で質問が起きたことが大きいでしょう。意思決定の場である国会に、こうした声を受け止める人がいたということです。

日本は家族に対する支援や社会支出が少ない(GDPの約1.36%)ということも理由の一つです。出生率が回復した国を見てみると、3%くらい使わないと少子化対策には不十分だろうと考えられます。

また、労働時間が非常に長いため、男の人が家事・育児負担をなかなかできないという日本の特色もあります。ワンオペ(ワン・オペレーション)育児では、第二子、第三子を産むのは無理です。男性が家事・育児をすればするほど子どもは増えます。

さらに、日本は女性管理職がとても少ない(約1割)ということも挙げられます。ヨーロッパは3割台でアメリカは4割台、フィリピンは5割を超えています。単に女性が働き続けられるだけではなく、働くということがその人の人生設計とうまく合致する、希望の持てるような働き方改革をやっていかないと、働きながら子どもを産み育てることに繋がっていきません。

生涯未婚率も、男性を中心に高まり傾向にあります。なぜ結婚する人が減ったのでしょうか。大きな理由は、日本の労働環境の悪化です。非正規労働や年収が低い人ほど結婚していません。その背景にあるのは、強い男性規範です。男性に家族を養うだけの賃金を稼ぐことが求められている中で、男性の賃金は下がっているので、自分の環境や年収、雇用形態では結婚できないのではと思ってしまいます。

このように見てみると、少子化の原因と対策は明らかで、やるべきこと――保育園や家族手当を増やし、長時間労働を抑制し、女性のキャリア展望が開けるような人事制度を構築し、結婚規範について考え直し、賃金を上げる――が分かっているのにもかかわらず、むしろ間違った方法や精神論的やり方にお金を注ぎ込もうとしています。それはやはり、意思決定のところに大きな歪みがあるからです。

女性議員比率の意味するもの

その歪みとは、国会に女性が非常に少ないということです。女性議員比率は衆議院(下院)で9.5%、世界平均は22.7%なので、その半分以下です。191か国中157位の日本は、世界の最下位グループ(10%未満の38か国ほど)の中にいます。

1995年のデータでは、世界平均は11%、今は22%なので、20年間で倍増しました。日本は1995年に2.7%という少なさですが、その頃のイギリスは9.2%、オーストラリアは8.8%、フランスはわずか6.4%なので、今の日本よりも少なかったのです。たった20年前に、他の民主主義国では、女性議員が少ないというのは民主主義として問題ではないかと気がつきました。

そこで他の国が何をしたかというと、「クオータ」という割当を導入し、少なくとも候補者の何割かは女性にすることを選挙制度の中に組み込みました。女性議員を「あえて」増やす努力をしたのです。今では120か国以上、世界の過半数の国でクオータを実施しています。

女性議員比率が世界一高いのはルワンダ(63.8%)です。ルワンダの場合は少々特殊で、大虐殺という悲劇があり、男の人が大量にいなくなってしまった後に民主国家を打ち立てたので、憲法にクオータが入っています。アジアの中では、同じように悲劇的な形で内戦を乗り越えた東ティモール(38.5%)が一番高い比率です。

日本のお手本になるのは、アジアの民主主義を圧倒的にリードしている台湾(38.1%)です。台湾には3種類のクオータが存在し、2016年に誕生した総統も女性です。日本より低いアジアの国はタイとスリランカですが、次の選挙の時に抜かれてしまうかもしれません。実際、2015年にアウンサンスーチーさんが出馬した選挙の時に、ミャンマーには抜かれてしまいました。

女性議員が少ないとなぜ悪いのか、とよく訊かれます。多くの国では、女性議員比率が民主主義のバロメーターになっています。民主主義とは結局、正義の問題で、正義とは「何が当たり前か」ということです。ジャスティン・トルドーさんというカナダの若い首相が2015年、男女半々の内閣(パリテ内閣)を作りました。どうして男女半々なのかという記者の質問に彼は「え? だって2015年だから」と答えました。彼にとって、2015年にはパリテは当たり前(正義)だったわけです。

女性が参政権を持つことは、100年前にはまったく当たり前ではありませんでした。今では女性参政権を疑う人はいないですね。日本ではようやく、候補者を擁立する際には男女が「均等」(野党の原案では「同数」)になるものとするという議員立法案が国会に提出されました。100年後にはおそらく、意思決定における男女の対等な参画が当たり前な時代になっていると思います。

日本も他の先進国と同じように、税と社会保障システムを男性稼ぎ主モデル――男性が安定的雇用によって家族を養うだけの賃金を得て、女性は家計補助的な形で働く――から共働きモデルに転換していく必要があります。女性議員が増えれば、経済がより共稼ぎ型になり、子育て支援が増え、少子化問題も解決に向かっていきます。また、ジェンダーに基づく暴力・差別の解消や支援策も恩恵を受けます。

日本がなかなか持続可能な社会になっていかないのは、やはり女性議員が少ないからです。女性議員が少ないのは、単に女性のやる気や能力、政治への興味がないという側面以上に、政治に入りたいと思ってもなかなか入れない、結果的に女性を排除してしまう色々なメカニズムがあるからです。そこにもっと関心を持ち、民主的かどうかを考える必要があります。

クオータのような形であえて女性を増やすと、女性に下駄を履かせることになり、能力のない女性が出てくるという批判がよく出ます。けれども、女性への枠によって出やすくなると、実際にはすごく優秀な人が手をあげるようになり、また議会全体の多様性が高まり、議論が活性化されるというデータもあります。

民主主義ってなんだ?

民主主義の前提は、社会は多様な人びとから構成されているということです。最終的に意見の対立があった時は多数決になります。ただし、少数派の人がすべての案件において少数者になって排除され、常に意見が反映されないというのであれば、それは民主的とはいえません。必ず少数の人は生まれますが、その少数派の存在にどれだけ配慮できるか、つまりその人たちの権利が守られ、決定に不服のある場合は異議申し立てできるなど、なるべく広い合意形成をしていく努力がとても重要です。

私たちは正当かつ安定的な決定を作り出すために民主主義という制度を持っていますが、人の意見は変わるということが前提にないと合意形成はできません。利益や立場が違う人と会話することを通して、人の意見は変わりうる。そうした柔軟性に未来を託しているのが民主主義だといえます。ところが、相手は敵か味方かという友敵関係で政治を語ると、それ以上の議論は無駄で、選挙で勝った方は何をしてもいいという話になり、議会主義が空洞化してしまいます。

民主主義は制度だけではなく、規範――書かれてはいないけれど皆が大切だ、当たり前だと思っていること――が重要です。最近は民主主義を単なる多数決だと矮小化する人や、民主主義の規範を守らない人が増えているように感じます。民主主義が無効化されかねない、とても危険な信号だと危惧しています。

「代表」とは何か

一億人以上の人口がいる日本では、代表を選んで、その代表の人たちが国会で議論を尽くして、中には意見を変えることによって、なるべく広い合意形成をしていく、「代表制」民主主義を営んでいます。

「代表」と聞くと、卓越した能力を持っている偉い人が賢く判断をして皆を引っ張っていくといった、リーダーや統治者のようなイメージがあると思います。ところが、代表(Representation)という言葉の語源は、「Re:リピートする+Present:現存する」です。つまり、私たちの代表者である国会議員は、国会で私たちの声を再現(代弁)してくれる人なのです。

代表は「何か」(イデオロギー)を代表することもあれば、「誰か」(アイデンティティ)を代表することもあります。政党の人のほとんどは、党の理念といった「何か」を代表しようとしています。また、日本の選挙は基本的には選挙区制なので、居住地域の中から代表を選ぶことになります。そうすると、必ずしも地域特性とは関係のない政治的なアイデンティティ(主体性)は、選挙に反映されにくくなります。

アイデンティティ・ポリティクスというものが近年になって非常に重要視されてきています。ただ気をつけなければいけないのは、アイデンティティというのは「あなたと私は違う」ということでもあります。アイデンティティの違いが非常に強調され、何か対立的な争点になってしまうと、どちらが勝つか負けるかといった政治闘争になりかねません。こういった不毛な、あるいは人を排除していくような政治のあり方は、民主主義と真っ向から反するものです。アイデンティティは違うかもしれないけれど手を携えることができるのだと、対話の可能性を残し、それを常に広げていくことが、今の時代においては重要になっています。

回路をつなぐ

そういったことを私は「回路をつなぐ」といっています。代表者は本来、私たちが委託したことをやるはずが、むしろ頼んでもないことを勝手に決めて押し付けてくることも多々あります。それを防ぐためには、圧倒的に足りない双方向コミュニケーションを豊かにしていく必要があります。それはそんなに難しいことではなく、例えば選挙ボランティアに行ってみる(自分と政治的思考の近い人に出会える)とか、地元の政治家に訴える(FAXが効果的)といった小さなコミュニケーションを積み重ね、対話をもっと密にすることで、民主主義を豊かにしていくことができます。政治に尻込みしてしまっているたくさんの人たちがもっと政治に積極的に関わっていくようになれば、持続可能な社会に変えていくことができると確信しています。

東ティモールでの二年間

村山 兵衛 SJ (神学生)

独立15年目となる今年、東ティモールは少しずつ豊かで平和な国へと成長しつつあります。物質的に豊かになりつつあるなか、心の善さとしての徳と身体の健康を築く教育の役割が、未成年が人口の約半数を占めるこの国で、重要な課題となっています。

わたしは2015年3月から2017年2月まで、この国の「聖イグナチオ・デ・ロヨラ学院」に派遣され、教員として働きました。同学院での約2年間は、出会いやたすけ合いをとおして、東ティモールの人びとから多くを学ぶ経験となりました。

都会の雑踏から離れた環境のなか、東ティモールではまだめずらしい全日制の中高一貫教育。2017年には中1から高2まで約550人が揃います。多くの生徒たちは、午前8時の登校時刻に間に合うために、5時か6時に起きて首都ディリから通学バスで通ってきます。月曜から金曜まで7時間目まである授業。宿題をかかえて午後3時半に下校しても、家に着くのは5時か6時。地元の村から歩いて通う生徒たちも、家では炊事洗濯に多くの時間を割いたのち、ほぼ毎週不定期に停電があるなかで、夜おそくに宿題をする生活。以前の学校のゆるい生活リズムになれてしまっている新入生たちは、朝ご飯を食べないだけで病気になり、学校の規律になれるだけでも1年以上はかかります。水道、電気、家電製品、インターネットはごく一部の富裕層をのぞいては、あたりまえではありません。

ですが、子どもたちを見ていると、そんな不便さや貧しさを「不幸」と感じさせません。昼休み、生徒たちが校舎わきの涼しい木陰で持ち寄った食事を分かち合っている光景が見られます。重い荷物を先生が運んでくると、生徒たちは自然とたすけてくれます。「たすける」(ajuda)――彼らが口癖のように使うこの言葉が、わたしは好きです。

教師たちも試練の連続です。インドネシア統治時代に初等教育を受け、独立後のポルトガル語中心教育に順応しなければならない彼らの生活もまた、生徒と同様、早朝から夕暮れまでの忙しい日々です。家に帰れば一家の父か母。25セントのインスタント・ラーメンにお湯を注いでいるのを見ると、なんだかいたたまれない気持ちになってしまいます。彼らもまた職員室で持ち寄った質素な昼食を分け合って一緒に食べています。「だれかが立ち上がって教育に奉仕せねばならない」この国で最初に立ち上がったのが、彼らです。彼らからもわたしは多く学びました。

生徒一人ひとりが才能と能力を開花させる教育の現場では、当然成績をめぐる競争があり、優秀な生徒とそうでない生徒との間に実力の差がうまれます。ディリ市内のすぐれた私立校を出てきた生徒と、田舎の公立校で育った生徒では、スタート地点でもう差がひらいています。奨学金制度や入学支援(学習サポート)をとおして聖イグナチオ学院では、彼らが一緒に勉強しています。授業ではつねにひろい視野とふかい配慮が求められます。たすけ合って勉強する生徒たちのうちに、わたしは東ティモールの希望を見ています。競争における勝者と敗者が食卓を分かち合うこと、それは家庭内、教室内、職員室内だけではなく、国のなかで、また国家間で実現しなければならない正義のはずです。

日本はかつて第二次世界大戦中にティモールを占領し、3年間にわたって飢える被占領民に脅迫、搾取、強制労働、処刑、性的暴行を繰り返す泥沼の統治を犯しました。聖イグナチオ学院の生徒と同じ年恰好の少女たちが、75年前、従軍“慰安婦”として毎晩涙のうちに不条理な苦しみを耐え忍んでいた事実は、決して忘れてはならない歴史です。

人間の幸福も国家の幸福も、まず心の善さから生まれる有徳の行為、次にその心をそばで支える身体の健康、そしてこれらに仕える適量な富によって構成されます。道徳を欠いて健康と富だけが増加する社会はおそらく幸福ではないと思われます。教育がこの有徳の生の形成に大きく影響を及ぼすことは、言うまでもありません。

東ティモールの人々に学ぶことをとおして、また彼ら自身の将来のために正義を実現できるのなら、たすけ合いから生まれる喜びはきっと不滅の価値を輝かせるのではないでしょうか。

【追悼】 薄田昇神父

高崎 恵子
旅路の里スタッフ

薄田神父様の容態が思わしくないと知らされたのは昨年の暮れ、神父様が旅路の里の活動として力を入れていた高校生の釜ヶ崎体験学習の最中でした。高校生たちに釜ヶ崎の歴史や現状を語る薄田神父様の姿が、亡くなられた今も力強い声とともに昨日のことのように思い出されます。

私が釜ヶ崎で働くことになり旅路の里に来たとき、薄田神父様と若者たちと猫2匹が私を迎えてくれました。薄田神父様はいつも小さな台所の食卓の定位置に座り、入れ替わり訪れる人たちに私を紹介してくれました。たくさんの人と挨拶を交わしましたが、名前も顔も繋がりも覚えきれない日々が続きました。毎日のように大勢の人々と出会い、特に若い人たちとの交流がたくさんありましたが、薄田神父様は私の仕事については最低必要なこと以外、ずっと何の指示もしませんでした。薄田神父様自身は社会問題に常に目を向け、裁判や集会に積極的に参加していました。裁判の内容や集会で語られたことなどを熱く語る神父様から、貧困や日雇い労働の抱える問題をたくさん学びました。最初は何をしたらよいかわからず戸惑いましたが、放任されつつも、私は時とともに育てられ、自分なりに旅路の里と釜ヶ崎という地域の中で必要と思われることを果たすようになりました。その後もずっと薄田神父様は私に助言らしいことも言わず、不満も言わず、悩んだり行き詰まったりしている時には慰めと励ましの言葉をかけてくれました。

1980年代の初めに旅路の里が設立された当時からずっと釜ヶ崎で活動を続け、今も旅路の里に出入りしている人たち(当時の若者たち)が薄田神父様の訃報を受けて、神父様への思いを語ってくれました。「自分も含め当時の若者たちにとって、薄田神父のいる旅路の里は、ひとつのたまり場だった。薄田神父の度量の大きさを改めて感じるし、旅路の里という場があったから今日まで釜ヶ崎に関わることができていると思う。」「薄田神父は自分の中で今も大きな存在だと亡くなって気づいた。」「旅路の里にいていつも自分たちを受け入れてくれた薄田神父の生き様を思い起こしながら、釜ヶ崎での取り組みを続けて行きたい。」思い出を語る誰もが口にするのは、薄田神父様の寛大で自由な心です。私が旅路の里で日々体験してきた人々の出入りと交流は、神父様が大切に培ってきた旅路の里の原点だったのだと思います。薄田神父様は特に若い人たちとの賑やかな語らいが大好きでした。そして彼らにとって父親のような存在だったのです。そのような広くて大きな父の愛は彼らの心の中で今も生きています。そして釜ヶ崎に根を下ろした旅路の里はその活動とともに、今も自由で開放的な気風を受け継いでいると思います。

私が薄田神父様と一緒に働いたのは、神父様の16年に及ぶ釜ヶ崎での生活の最後の5年間でした。そして私は旅路の里に来て今年で26年になります。薄田神父様が私を受け入れてくれたから、私はこうして釜ヶ崎で生きています。旅路の里に来た当初、神父様がたくさんの人々を紹介してくれたから、私は今もその関わりの中で人々と繋がって働くことができています。薄田神父様が亡くなって、改めてそのことを強く意識しました。

薄田神父様、本当にお世話になりました。今までありがとうございました。この世でのお別れは寂しく悲しいことですが、これからは天国から旅路の里をどうぞ見守っていてください。

《薄田昇神父は2017年1月14日に帰天。享年87歳》

フランシスコ・ザビエル 薄田昇 S.J.
薄田昇神父 ご帰天カード